再度
またまた登場である。
誰かにこのブログの意味を問いたい。誰も見ないこの掃き溜めの意味を。
さて、誰に問おうか。父か、母か、姉か、兄か。
生まれた瞬間から、恵まれた家の子どもだった私は、今も尚恵まれているのだろうか。
恵まれているのであれば、何に恵まれているのだろう。
恵まれていないのであれば、何に恵まれていないのだろう。
1Kに独居している私の話など、誰が聞いてくれよう。
吉岡里帆と結婚したいなどと抜かしながら、今日みたのは2016年のミス慶應である。
なんて体たらく。目の当てようもない失態。
再放送のような毎日を送る私の人生に、広告を打つような馬鹿がいるのかしら。
いる。ここにいる私がそうなのだ。
坊主
早くも記事を書くことに飽きている。
そりゃそうだ。特に何もしていない毎日なのに、何か記録に残せるわけがない。
今日も今日とて、昼間にバイトをし、夜は親族と会ってきただけなのだ。
適度に買い物をし、美味しい料理を食べ、色んな話をしただけなのだ。
これらの行動が私の将来にどのような良い影響を与えるかは、全くわからない。
このような日常に疑問を持たず、毎日腐心せざるを得ないのが私なのである。
しかし、外に出ることは大変良い気分だと改めて実感した。
明日は、何をしようかと思うのもまた一興である。
まずは早起きから始めてみようか。
出無精
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
ある物を手に入れるためには、冒険も必要だ。みたいな感じの諺である。
仔細を調べずに私自身の考えを書くと、
「虎の子はまだ捕まえたらんといたってよ」
である。
まず虎穴が何なのかすら知らないが、どれくらいの大きさ、広さなのだろうか。
そもそも虎は穴を掘るのか。そもそもこの諺に出てくる「虎」は「タイガー」なのか。
某あだち充作品内のセリフで「世の中には知らないことばっかりね」みたいな感じのものがあったような記憶がある。
二四年生きてきて、普通の人生を送ってきたはずだが、圧倒的に知らないことの方が多い。
世の中のことを知るためには、外に出なければならない。
普通の人は平日に家から一歩も出ないということは有り得ない。
よって、今日の私は普通の人ではなかった。
元々あった予定をアイスバーグさんのように全てキャンセルして、引き籠ってしまった。
籠城である。
しかし、吉岡里帆と結ばれるためには必要なことなのかもしれない。
口
二〇一八年が始まり早五日。
学期末の試験を一ヶ月後に控えながらも、実家で煮過ぎた餅のように溶けた吉岡だったが、テレビに映る吉岡里帆を視界に捉え、思う。
「吉岡里帆と結婚すれば、どっちも名字変わらんで済むやん」
吉岡の今年の目標は「寡黙」だ。
口は禍の門。能無しの口叩き。ベラベラと舌を打つと碌な事がない。
過去の英国の二枚舌外交には辟易する。米国大統領の口舌マドラーは世界中を掻き回している。
吉岡自身も普段から喋り過ぎという自覚が有り寄りの有りである。
人の話を聞かないままに、自分の意味のない話を緩い便のように垂れ流しても、面倒臭いだけ。
「吉岡里帆と結婚したらすれば、どっちも名字変わらんで済むやん」
という、目標とも夢とも言えない考えを、溶けた餅の吉岡が実家の家族に共有しても噛みきれないだろう。
だからここに書く。
吉岡里帆という存在を吉岡のものにしたいのだ。